東京で44年間暮らし、2011年に故郷の熊本での生活を
再スタートしたエッセイストの吉本由美さん。
「もっと九州を知りたい!」と、気になるもの・味・人を訪ねる旅に出た。
エッセイ=吉本由美 構成=三星舞 写真=吉本由美、三星舞
緑輝く特急に乗り
いざ、日田へ!
盆地の寒さは身に沁みて知っているのであまり寒くならないうちにと、11月も終わりかけの頃日田に出かけた。九州以外にお住まいの人の中には日田がどこだかご存じない方もあるので念のためお知らせすると、日田は大分県にあって、大分市と福岡市と(少し離れるが)熊本市との中間に位置する山間の、盆地の、小さな町です。小さくとも歴史は古く、江戸時代には幕府直轄領、のちに天領となって九州の政治・経済・文化の中心をなしたところと言われ、好きな表現ではないけれど〝九州の小京都〟とも呼ばれている。
子供時代は父の車で幾度か訪れた。3月はお雛さま、夏場は鰻、秋は紅葉と美味しい食事がそのドライブの目的だった。大人になり東京住まいとなってからは何十年もの間訪れる機会がなかったが、7年前の帰郷以来〝日田リベルテという映画館〟という12文字をたびたび耳にし目にするようになり、俄然日田の町が近づいて来た。リベルテは、2度も閉館した古い映画館をこの業界には素人の青年〝原茂樹〟が引き継いでミニ・シアターに〝仕立て直した〟という映画館なのだ。映画だけでなく音楽ライブ、写真展、絵画展、トーク・イベントも開催するという。山間の小さな町にそんな空間があるなんて、とわくわくした。まるで映画のようなその存在に映画好きの血が騒いだ。これは近いうち日田に行かねば、いや、行くような気がする、ゼッタイ行く。そう思いながらも、哀しきかな、瑣事に身を任せているうちに月日は湯水の如く流れて去って行ったのだった。
けれど、はい。強い思いを持っていればその機会はきっちり訪れる。今年の夏、これこそ日田へ行けという神の啓示なのだろう、リベルテ原さんのインスタグラムを見ていたら、なんと、東京時代の古い友人(編集者・作家)がリベルテで、近年私が最も愛する映画『パターソン』(ジム・ジャームッシュ監督)について講演するという記事がアップされたのだ。リベルテ・懐かしき友・パターソン! なんとまあ麗しきトリプル・スリーであることよ。こんな機会は滅多にはない。今行かないでいつ行くっての?!
ということで、猫シッターさんを見つける余裕がなかったため当日の午後日田に向かい翌朝とんぼ返りというタイトなスケジュールを遂行したのだ。疲れたが楽しく充実した半日だった。けれど、たった数時間の滞在ではとても日田を体験したとは言えなかった。秘密がそこここに隠れているような古い町並み、淑やかに流れる三隈川の鏡のような川面、そしてそこに写り込む川辺の宿の灯、さらに美味しそうなものの数々…、まだ見ていない、食べていないものが残りすぎていた。後ろ髪を引かれるとはこのことで、それで原さんに「消化不良なのでまた来ますね。今度は取材で」と告げたのだ。
いつもに増して前置きが長くなったが、そういうわけで日田取材を企画。4ヶ月後の11月、気持ち〝るんるん〟、上機嫌で日田に向かった。しかも今回は行きも帰りも特急「ゆふいんの森号」利用だからさらにテンションが上がる。夏に行ったときは何しろ急で、列車の調整がきかずに乗ったのは、行きは黄色い普通列車(これはこれで可愛かったが)、翌朝の帰りは同じ特急だが〝いん〟も〝森〟もついていない「ゆふ号」だった。私には、日田に行くならあの緑輝く「ゆふいんの森号」でという積年の思いがある。だからどうしてもその日は「ゆふいんの森号」に乗らねば気が済まないという状態だったのだ。日帰り取材の往復を「ゆふいんの森号」指定となると選択はかなり限定される。行きは久留米を10時10分発、日田10時59分着の列車、帰りは日田を18時04発の列車、これしかない。つまりその間の滞在時間は7時間しかないのである。行きたいところ、会いたい人、食べたいもの、が犇めいている日田を7時間でどう料理するか。「今回がこれまででいちばんハードかもね」と、久留米のホームに緑輝く美しい車体が入線したとき編集女史と確認し合った。
久留米駅は「ゆふいんの森号」始発の博多駅からひとつ目だけれど、いずれの車両も満席で、平日なのにと驚いたがよく見るとほとんどが中国からの観光客だ。立ったり座ったり歩いたり、わんさわんさと騒がしい。予約していたお弁当「ゆふいんわっぱ」を取りに編集女史がビュッフェへ向かったもののぜんぜん戻ってこないので、「いまに着いちゃうじゃない」と焦りに焦った。日田までの所要時間は49分と短いのだ。やっと戻って来たのが10分過ぎ。通路がごった返していて弁当をなかなか受け取れなかったとのことで、急いで食べる。わっぱに入った可愛いお弁当、720円なり。
食べ終わると車窓はしだいに山深くなって行く。前回乗った普通列車“Y-DC125”が停まった夜明駅、次の光岡駅も通過して「ゆふいんの森号」は日田駅を目指して突き進む。「よあけ」「てるおか」そして「ひた」。この一帯、駅の名前からして素敵…とうっとりしていると日田駅に到着した。下車するとすぐ列車はこの先の由布院に向かって静かに滑り出した。中国の皆さんは今夜温泉三昧か。私は半年ぶりの山間の空気を思い切り吸う。夏とは異なりぴりりと硬い。さてさて、リベルテの原さんが迎えに来てくれると言っていた。すぐ判るよう眼鏡を掛けた。

画家・宇治山哲平の
楽しく不思議な世界
あ、駅前の駐車場で原さんが手を振っている。こちらも負けないように振り返した。一度お会いしたきりなのに昔からの知り合いのように思えるは不思議なことだ。甥っ子の車に乗っているような気楽さで、最初の目的地「日田市複合文化施設AOSE」へ向かった。AOSE(アオーゼ)はもともと中央公民館だったのを2年前、新たにギャラリーや博物館を併設し社会教育の拠点となるよう開館したそうだ。アオーゼとはここで「会おうぜ」ということかな。違うかもしれないがそう思うことにして気持ちのいいエントランスから中に入る。天井の高い入口ホールには丸いテーブルが点々と並び、学生たちが勉強やおしゃべりに使う中、ちらほらおいでの御高齢の方々も負けじとお話に夢中である。やはり「会おうぜ」で間違いではないような気がする。
ここにどうしてお連れ願ったかというと、アオーゼ2階で11月25日まで開催中の『「ぼくらの宇治山哲平」展―自然とリズムー』を観たかったからだ。その昔、東京赤坂にサントリーホールがオープンし、そこで「響」というタイトルの大壁画に刺激を受けて以来、う・じ・や・ま・て・っ・ぺ・いという名前は、ひっそりとだけどかなりしっかり頭の片隅に生きて来た。画集をたくさん開き彼の○△□の創る抽象絵画のファンになった。しかし画集で観ることができても東京近郊で彼の絵を直に観る機会はなかった。だから偶然行った湯布院の小さな美術館で数点に出会えたときはそれこそ小躍りしたものだった。宇治山哲平は日田の生まれで、それらは日田の隣町湯布院の名士の個人所有のものだった。
そういう風に私にとっては観ることがとても難儀だった絵画展が日田市のアオーゼ内ギャラリーで行われ、その設営を原さんが手伝っているということを彼のインスタグラムで知ったのは10月。日田取材がこの時期となるのは当然至極の成り行きである。
(ところで原さんは映画館リベルテからの発信作業だけでなく、ヤブクグリ〈後に記述〉の広報や、コラムや講演、大学での講義、そしてこのような文化面の活動を一手に引き受け、町の活性化に取り組んでいる。夏行ったとき原さんの高校時代の同窓生を数人紹介された。話しているうち、彼らみんなで力を合わせこの町を盛り上げていこう、育てていこうとしている熱意がわいわいと伝わってきて、つくづく羨ましく思ったのだった。新しい町を創る、あるいは町をリノベーションする、というとき、湯布院や別府の成功例を挙げるまでもなく、最も必要とされるのは頭脳集団・行動集団なのである。原さんの仲間もそれぞれの得意分野を担って広く活動している様子。みなさんのイキイキした笑顔を見たとき日田の町の未来が輝いて見えたのは言うまでもない)
「ぼくらの宇治山哲平展」では彼を代表する後半の純粋抽象画だけでなく初期の風景油彩画も展示され、たぶん郷土を描いたのだろうと思われるそれらのぼやぼやとしたあたたかな色合いにちょっと打たれた。「僕たちが知っている○△□の人が描いたとは思えませんよね」と会場を案内してくれているアオーゼの宗野智志さんが言う。頷きながら、そう言えば宗野さんも年齢や雰囲気から原さん仲間の一人ではないかと思い至った。「日田市には美術館がないんですよ。だから地元のみんなが知っている宇治山哲平の展覧会などを通して、ここを、アオーゼを、市民が集まるスポットにしたいんです。そうすれば市民の声が美術館開設の後押しとなるのではないかと思っているので」と、宗野さん、一点一点解説しながら声高でなく丁寧に密やかに抱負を述べた。
そこに原さんが「たくさんの子どもたちが来てくれているんですが、今回の展示では〝matier(マチエール)=仏語で作品の絵肌〟という言葉を覚えて帰ってほしいんです。ほら、立体感があるでしょう? 宇治山哲平は油絵具に粉末にした鉱物を練り込んで使うなどして独自のマチエールを生み出しているんです。こんなことは実際に絵を観なければわかりません」と口を挟むと、横から宗野さん「日田の子どもたちには郷土の芸術家・宇治山哲平に親しんでもらいたいと、以前も小学校に宇治山の作品『華厳』を運び、肉眼で眺めながら自分たちも絵を描く試みを実践したことがあります。子どもたちは面白がっていましたね。今後も同様の取り組みを広げていくつもりです」と添える。二人は絶妙の組み合わせに思えた。
半時間ほど、楽しく不思議な世界に連れて行ってくれる宇治山哲平の○△□を堪能して会場を出た。出たところに〝みんなで作る作品スペース〟というテーブルがあった。薄くスライスした日田杉のメッセージカードに来場者が絵を描いて、それが壁にたくさん貼られていた。私もおでんのような○□△を描いて貼ってもらった。
さてお昼も1時間過ぎて、予定通りにお腹が空く。念願の寶屋(たからや)さんのチャンポンを食べるにふさわしい腹具合である。駅の直ぐ隣にある寶屋へ急ぐ。この店は今回取材のメインを陣取る「きこりめし弁当」の発祥地である。しかしこれはお持ち帰りの愉しみに取ってあるので取材は夕方。今はとにかくチャンポン! と、原さん、編集女史、私の3人でなだれ込んだ。「きこりめし弁当」の制作者である寶屋主人の佐々木美徳さんは会議で外出中のため、奥様の靖子さんがフル笑顔で迎えてくれた。ここでも原さん常連らしく、あたかも家族の一員のような対応を受けている。こんがり炒めた豚肉入りの独特の香ばしいチャンポンは想像以上に美味しかった。家族サービス(?)で出してくれた鶏天とソフトクリームも超美味しかった。ゆっくりしているとどんどんサービスが出て来そうなので頃合いをみて席を立ち、リベルテへと向かった。
良質・誠実・マニアック
サロンのような映画館
正確な名称は「日田シネマテーク・リベルテ」。それは昔ながらのボーリング場の2階にある。階段を上ってドアを開け細い通路を抜けると、かつては待合室と呼ばれていただろう空間に、テーブルセットが3つ並んだカフェ・コーナー、書籍、CD、DVD、服やおもちゃや器が所狭しと置かれている物販コーナー、そして小さなギャラリーまである。普通映画館にはない取り合わせに、コーヒーを飲みながらその心を訊ねると、「映画を鑑賞したらまっすぐ帰路につくという従来の〝単なる映画館〟ではなく、今観た映画の感想を述べ合ったり映画話に花を咲かせたり好きなものを選んだりできる〝サロン〟を作りたかったので」とのこと。
閉館した映画館を引き継いだあとは内装から携わり、経験を生かして(原さんは音楽活動、大手家電販売店での現場管理、神社のお守り制作会社勤務など個性的な道を歩んできた)館内をリノベーションした。「この空間の雰囲気作りのお手本となったのが神社でしたね」と笑う。お守りの営業で何度も神社に足を運んでいるうちに、そこがみんなの場所であることに気が付いたのだ、と。手入れが行き届き、個々がそれぞれの思いを胸に集まる場所。集う人をセレクトしない場所。日常から抜け出し、立ち止まって自分と向き合える場所。そういう場所にこの映画館がなればいい。神社…もしくは公民館のような、みんなの集う空間を作りたい、と決意した。

確かに彼のインスタグラムを見ていると(私のように家にこもっている人間には外の世界を瞬時に知ることのできるインスタグラムってとても便利)、音楽ライブ、ライブペインティング、個展、トーク、と様々なイベントが次から次に行われているのがわかる。次から次といってもセレクションには一本筋が通っていて、それは〝良質・誠実・マニアック〟という色彩が付いているから固定ファンの層が厚い。映画も同じで、上映するのは日田の人に観てもらいたい作品だけだ。特に子どもたちにはたくさんの映画に触れてほしく、春・夏・冬の休みを中心に子供を対象とした映画上映を行っている。企画から何から何まで一人でやって、想像しただけでも私の腰は抜けそうなのに、間に展覧会やトークへ出張、さらにちょこちょこ温泉まで行き極楽極楽と喜んでいるのだから、この人身体がいくつあるのだろう。

原さんには映画館の館主、支配人、映写技師という仕事のほかにヤブクグリ広報係という使命もある。原さん仲間の会話にたびたび登場するこの〝ヤブクグリ〟とは何か。それを根っから詳しく説明すると(ここに紙面はないにしても)紙面が尽きるからとても大雑把に言わせてもらえば、ヤブクグリとは日田の山にだけ育つ杉の名前だ。日本の林業は今最大の危機を迎えている。日田も然りで、それを憂う日田や福岡、東京から集まった〝仲間〟がこのヤブクグリで何かできないかと立ち上がった。しかしあくまでも面白がるのがテーマだから、杉の丸太で筏を作り三隈川に浮かべてみたり、そのとき閃いたというわっぱ形式のお弁当の開発をしてみたり。冗談っぽく見えても山を健康な状態に少しでも戻すためには何ができるかを考える、そして行動する活動なのだ。
魅惑の町
日田巡り
さて目的のきこりめし弁当までは時間があるので、日田の中心、豆田町を散歩することにした。私は観光名所に行くのが苦手だ。ここも観光地には違いないがお祭りや祭日以外は静寂がある。たとえ観光名所であっても静かで古く小さな町の散策は楽しい。
歩いてすぐに目に付いたのは民家の軒下に飾られている造花のついた注連縄のようなものだった。それぞれの家で花も締め方も異なっている。きれいなので原さんに訊くと「あー、やはり目に留まりましたか。あれは白白(ぱいぱい)といって7月の日田祇園祭の山鉾に使われた竹製の飾りです。氏子が持ち帰り自宅の魔除けに飾っているんです」ということだった。
天領時代から続く立派な屋敷や蔵や家々に挟まれた石畳の細道からは様々な音が伝わってくる。その音に導かれて一歩裏通りに入ると、思いがけない店や屋根瓦や水路に出会う。この水路、江戸時代から続いているそうだ。日田は水の都でもある。近頃甘党になったという原さん推薦のおはぎを購入。家に帰ってゆっくり食べよう。安政二年(1855年)薬種問屋として創業という薬屋さんで漢方薬の匂い芬々の入浴剤を購入。信じられないくらい臭くていい匂いだ! この岩尾薬舗 日本丸館は本業の薬屋はほんの一部で、創業以来増築を重ねてそうなったという木造4層3階建ての建物が資料館として保存されている。申し込めば見学自由だが、その日は閉館されていた。
夕刻が迫っていた。最後に三隈川流域の隈町へ降りて川辺に立ち、川の中州にあたる亀山公園を望んだ。広い広い、子供は海と間違えてしまう広い三隈川の水は滔々と流れ、その流れを見つめていると引き込まれていきそうだ。気持ちいい。隈町側から亀山公園までわたされている細い石橋を、流れを見たら引き込まれそうで危ないので決して見ないでしずしずわたった。気持ちいい。川風に吹かれながら原さんが言う。「昔はこの川で丸太を組んで下流の大川まで運んだそうです」。あ、そうか!下流とは筑後川のことだ。大川とは西日本一の家具の産地だ。な~るほど、そういうことでありましたか! 山林に囲まれているわけでもない大川の町で家具造りがあれまでに発展した謎が今解けた。

町の食堂が作る
憧れのきこりめし
日田取材最後の仕上げに寶屋さんに行った。夕ご飯のちょいと手前どき、厨房の中で忙しそうなご主人佐々木美徳さんが私たちが持ち帰りにと予約していたきこりめし弁当2つ持って、にこにこと店内に出て来てくれた。そこにカチッとした黒目の光る男性が現れて名刺を出す。何だ、先ほど、町のどこかでお会いしたヤブクグリ会長/宿係の黒木陽介さんではないか。今度の名刺では、日田市観光協会事務局長という肩書きだった。
佐々木さんにきこりめし弁当ができるまでのご苦労を訊いた。「いや、なんか、ある日突然こういうの作りたいと言ってきてですね、自分たちの好きなおかずがたくさん乗っていて、たとえばがめ煮、干しタケノコ、こんにゃく、アユの甘露煮、大根の漬け物、鶏煮、いろいろ注文があってですね、できたのを試食して、ああでもないこうでもないと言い合って、何回も作り直しました。いちばん苦労したのが、まあこの弁当ではいちばん大事な丸太ごぼうでした。『杉ノコギリで丸太ごぼうを切り分けるなんていいよねえ』とかみんな勝手に言ってくるんで、その柔らかさまでになるのに試行錯誤の毎日でしたよ」と、にこやかな笑顔。撮影に包装紙を広げ、杉のわっぱの蓋を取った。おお! 憧れのきこりめしだ。なんとシンプルで食欲そそる姿であることよ!包装紙の絵とデザインはヤブクグリ活動の一員、牧野伊三夫画伯。
もうここで食べたくなったが、食べてしまうといそいそと持ち帰る喜びが消えてしまう。悩ましい。でも食べちまおうか、と、悩んでいるうち本日最後の「ゆふいんの森号」の乗車時間が近づいてきた。
あっという間の7時間。夏から数えて2度目の挑戦だったけれど、まだまだ心残りが多い。やはり日田の町にはたっぷりと時間を取って再訪すべきだろうかな。

大分県日田市上城内町2-6
0973-22-6868
営.9:00~17:00
休.年末年始
日田シネマテーク・リベルテ
大分県日田市三本松2-6-25 日田アストロボール2F
0973-24-7534
営.9:00~22:00
寶屋
大分県日田市元町13-1
0120-40-4366
営.11:00~21:00(OS)
休.1月1日