東京で44年間暮らし、2011年に故郷の熊本での生活を
再スタートしたエッセイストの吉本由美さん。
「もっと九州を知りたい!」と、気になるもの・味・人を訪ねる旅に出た。
エッセイ=吉本由美 構成=三星舞 写真=編集部


天草陶石から生まれる
とろっとした白磁を求めて


 この夏はあまりの暑さに家に閉じ籠もっていた。そのせいか、8月もあとわずかとなったあたりで、紺碧の海、人の消えた浜辺、音を立てる潮風、が急に恋しくなり天草に気持ちが飛んだ。熊本で“海”と言えば天草だ。東シナ海の深い碧が老若男女を惹きつける。
 子供の頃は臨海学校や家族避暑で天草へ毎夏行っていた。と言っても、楽しかったことより嫌な出来事を覚えているタイプなので、臨海学校の海の家に着いたとたん片眼にアブが飛び込みお岩さんとなって寝込んだことや、友だちのスピード狂のお父さんの運転で海沿いの道路を走ったとき知った〝死ぬほどの恐怖〟や、岩場で転んで膝小僧からギザギザの形に血が吹き出したことなどの痛くて怖い思い出が真っ先に蘇るのだけれど。
それでも天草は我々熊本県民にとって特別なところなので、7年前熊本に帰郷して以降、東京から友だちが遊びに来ると「じゃ天草に行こう!」と唱えるようになった。車のない私がそう言えるのも、乗って楽しい観光特急『A列車で行こう』がお目見えしたからだ。熊本駅から三角駅を走るこの列車、走行中は車内にジャズ♪A列車で行こう♪が流れ、40分ほどの乗車時間を海を見ながらカクテルを飲みながら過ごせるために観光気分がもりもりに盛り上がるのだ。遠方から来た友だちに熊本の楽しさを植え付けるには、阿蘇に向かう可愛い列車『あそぼーい!』や人吉に行くSL特急『SL人吉』と並んでA列車は、〝打ってつけの〟または〝もってこいの〟コンテンツなのである。


 でも今回は仕事ゆえそれは見送り、編集長運転の快適な車で宇土半島から風光明媚な天草五橋を渡って天草上島に入る。右手に海を見ながら30分ほど走ると天草下島の本渡の町。さらにそこから山中へ入りくねくね曲がりながら下島横断、おや、ここは一度泊まったことのある下田温泉だわ、なんて叫んでいる間に西海岸へ出る。と、おお、これぞ求めていた真っ青の空と海! 延々と陸地を走り続け抜け出たときに見える海の気の遠くなるような碧さと広がり、そして開放感に万歳しよう! 北はオホーツク海、南はこの東シナ海、2つの海を前にすると神々しささえ感じていつも拝みたくなる。
 県道389号線をさらに南下すること数十分、<この先大江天主堂、崎津天主堂>と記された魅惑的な標識には背を向けて、学校と屋根の低い家々の連なる天草町高浜地区へ入る。「白磯(しらいそ)」という古い旅館の一角を利用した駐車場に車を入れ、そこから「Porcelain」と書かれた看板の矢印を頼りに山里の小径を歩くこと数分間…見えました、木立の中に煙突が一本。さらに進むと、緑に包まれた山小屋的印象の「天草創磁 久窯」が姿をあらわす。熊本を出ておよそ3時間、長かったなあ。これはまぎれもなき小旅行だ。


 ひと月前、せっかく天草に行くのなら気になる作家さんがどういうところで作業されているのか知りたいと「久窯」の窯主・江浦久志さんに取材を申し込んだのだった。初めて江浦さんの器を手にしたのは2年ほど前、熊本市内の「オレンジ・橙書店」での展示会だった。店内に入ってすぐに、何とも言えず柔らかな雰囲気を放っている白い鉢ものに目が行った。白磁の器は好みの一つでいろいろ見てきて、そのキリッと透明感のある硬い感じに共鳴していたが、江浦さんの白磁はぜんぜん違った。アイボリーがかった白い鉢の〝まったり〟というか〝とろっ〟というか、ゆるい面持ちが新鮮だった。〝とろっ〟とした風合いはもちろん古伊万里の独壇場だが、こちらはその素朴な趣とはまたひと味異なる現代的な〝とろっ〟であり、これは何かを思い出させるなあ、としばらく思案。そして数分後、最近いろんなことが思い出せない自分としてはめずらしくもすんなりと、それは藤田嗣治の創り出した〝乳白色の肌色〟であることに思い至った。胸がどきどき、「欲しいぞ、これ!」と思う。


 ところが展示期日を知らないで行ったためそのときはもう終わり近くで作品のほとんどに赤マークが付いていた。白い鉢もすべて購入済み。チキショーと唸っていたら店主の田尻久子さんが「これならまだありますよ」と染付豆皿5枚をカウンターに置いた。こちらは少し青みがかったいわゆる白磁で、そこに青い丸文が三つ描かれ、縁の一部が掴みやすそうに跳ね上がっている。鉢の魅力には及ばないけれど丸文の細かな格子柄が小粋で可愛く欲しくなる。けれどすでに(その後の地震でほとんど割れてしまったがその当時は)死ぬまでに一人じゃ使い回し切れないほどたくさんの豆皿を持っていたのだ。それをさらに膨らますのは気が引けたので、セットではないのを確かめて「じゃ2枚ちょうだい」と言うと、久子さん「え?2枚ですか?う~ん」と腕を組み、「3枚残っても半端になるから、じゃこれは私からのプレゼントで」と笑って、2枚の値段で残っていた5枚ぜんぶをくれたのだった。独り身に5枚は多いと思ったものの、それはそれ、これはこれ、で頂戴した。今では薬味入れ、海苔や山椒の実の佃煮、辛いラッキョ3粒、ゆずジャコ、バターやジャム、などのほんのちょっとでいい食材を乗っけるのに重宝している。
 というわけでこの取材、もう一度〝藤田嗣治の肌の色〟の器を作って下さいという超個人的な願いを込めての訪問である。初めてお会いする江浦さんはTシャツに短パン姿で山小屋の仙人のような風貌だった。まずはとにかく挨拶代わりに白い鉢との出会いの衝撃を綿々としゃべる。それに「うんうん」「へええ」「それはそれは」と相づちを打ちながら気さくに答えてくれる。風貌だけでなく中身も仙人のように飄々としているこの作家さんって、いったいどんな人物なのかと興味が湧く。


 江浦久志さんは現在63歳。天草陶石を地場産業とする天草町生まれの天草町育ちという生粋の天草っ子だ。陶石を採集する会社に勤めていた父の影響もあり高校生になった頃からやきものに興味を抱いた。卒業後、伊万里の陶器会社に入社。そこで恩師となる澤田じゅん(牛偏に享)さんに磁器を学ぶ。それから有田で染付を、福岡の小石原で民陶を学び、27歳のとき帰郷して天草町の陶石会社に勤務。1988年に独立して、地産地消のもの造りを目指し現在の場所に小さな窯を開いた。 磁器は陶石を微粉砕して土にして、それを捏ねて、成形して焼く。陶器より硬く割れにくい。中でも天草陶石は「粘りが強いため薄く仕上げられ、見た目は繊細でも強度が高く、1300℃という高温で焼いても焼き崩れない素晴らしい素材」と江浦さんは絶賛する。地元贔屓ってわけじゃないけどこんな石は他にはないから天草陶石しか使わないそうだ。そして「産地に窯を開いているからこそできる贅沢かもしれないけれど」と、特等石から4等石までランク付けされた陶石を用途に合わせて使い分けていることも教えてくれた。純度の高い特等から下がるに従って鉄分含有量が増えていき、焼き上がりが濁りのない白色から青味というかグレーがかった白色へと変わっていく、と言う。従って高級白磁用には鉄分含有量が低く発光しているような白色に焼き上がる特等を、絵付けや染付には1等、2等、江戸時代の素朴な風合いを出すときは3等、4等、と使い分けているらしい。

 例の〝藤田嗣治の肌の色〟は? と聞くと、もちろん特等石を使っているが、「あの風合いはね、ここの石でなくては出ないでしょうね。基本的に天草陶石は、京都や九谷や瀬戸・美濃、砥部といった他の地の白磁より柔らかい色に上がりますから」とのことで、あれはそこに独自の焼き方が加わり仕上がった逸品であり、常に焼いているというものではなく、普段は日常使いの器を中心に制作しているので今は白い鉢ないそうなのだ。うっすらと作業場となりの展示室には白い鉢が並んでいるんじゃないかしら、と思っていたのでちょっとがっかり。

土捏ね、ろくろ廻し、絵付けに焼きまで、一人でこなすので大量生産はできない。作りたいものを作ってもそれが売れる保証はない。どこにも属さず仲間もいらない。でも、これでいい、と江浦さんは笑う。若い頃はいろいろやったし、いろいろあった。「同業者の集まりなどあると僕たちの頃は〝血を見る〟というか、討論と戦いの場だった」そうで、当時の作陶の世界は狭くて暑苦しかった様子。しかし今は「見てると〝親睦会〟なんだよね。ナアナアなの。戦わないの。スマートだけど、僕ぁそれでいいの?って思うんだよ。けどまあそれでいいんだろうね」と苦笑い。でも苦笑いでは終われない愁いごとが実は他にもある。それは磁器をやろうという若手が出てこないという現状だ。
 「今天草には若手陶芸家がたくさん集まり窯を持っているけど、その多くが陶器制作で、難しいと思うのか磁器をやろうという人がほとんどいない。やってみて難しいと思ったら聞いたらいいんだ。やってみなければどこが難しく何が楽しいかわからないでしょ。そこをわかって訪ねてきてくれたらいくらか助言できるかもしれない。ぜひ磁器も作ってみてほしいんですよ。陶器を作る感覚を生かした作品が生まれるんじゃないかと期待しているんですよ」とエールを送るが、はたして若い人たちに届いているかどうか。

 最後にため息のように「僕はね、もうどこにも、何にも染まらずに、好きなようにやっていきますよ」と呟く江浦さんに、「でも白い鉢は作ってくださいね」と念押しした。「新しい『オレンジ・橙書店』の展示室は小さなギャラリーみたいになっていて江浦さんの器の展示に最適ですよ。私はいつまでもシンプルで白くて丸い鉢を待っていますからね」と告げると、にんやり笑って「そうかー、じゃもう一度白いの作ってみようかなあ」と答えてくれた。


〝塩で食す寿司〟
積年の願い叶える

 「久窯」を後にして再びてくてくと小径を歩き旅館「白磯」に着いて、あっ、と目を丸くした。さっきは気付かなかったけれど、駐車場となっている広い庭の片隅には葡萄棚があり、そこに葡萄が何房もたわわに実りぶら下がっていたもので。お庭園芸としては素晴らしいその出来映えに驚いたのだ。ところが駐車場を出て高浜地区を走っていると、あちらこちらのお宅の庭に葡萄棚があり、そこにもここにもたわわに実った葡萄の房が見えるのである。これは庭の園芸どころじゃないよ、この地区の特産物かもね、と編集女史と話したのだが、後日答えが判明した。熊日新聞の8月27日付け1面によると、正にそのとおりで、それは“高浜ブドウ”と銘打つこの地域の特産物なのだった。高浜地区振興会が特産化を目指し挿し木で育て、2009年初めての収穫、それから9年経った今年は過去最高の約340キロもの収穫があり、山梨のワイナリーと提携してワインやビネガーの生産を始めるらしい。やるよるなあ、高浜地区。

 海岸から出て、さあ、一路、お寿司屋さんを目指して再び下島を横断する。横断した先が本渡の町で、お寿司屋さんへ向かう途中に「本渡第一映劇」発見。すると胸がじいんと痛んできた。昔々の映画館が幾たびかの改築はあったにしてもほとんどそのままの形で保存され、一時期閉館に陥るも平成元年一人の映画好き青年が復興を申し入れ、再スタートして今年で18年。今もフィルムのみで上映する全国でもめずらしい老舗映画館である。いつか行きたい、行くぞ、と思い続けて今日に至ったはずが、そこを素通りしてお寿司屋さんへと急ぐ我。仕事だし、と自分に言い聞かせてながらも少し胸が痛むというわけ…。

 目的のお寿司屋さんとは、言わずと知れた「奴寿し」。天草に行くと言えば多くの人が「『奴寿し』でしょ」と羨むほどの有名店である。前のページに自分は<嫌なこと怖いことしか思い出さないタイプ>と書いたが、もう一つ<有名どころ、一流どころには背を向けるタイプ>でもあって、いわゆる〝肥後もっこす〟の一派なのだが(この体質のせいでどれだけ苦しい思いを繰り返してきたことか)、「奴寿し」だけにはその気持ちは押し殺し、いつかいつかいつの日にか、行って思いきり食べてみたい、と、大げさだけれど長いことその機会を狙って生きてきたのだ。で、天草行きが決まったとき「それは今でしょ」ということで取材に入れてもらったのである。ただ美味しいだけなら行かないだろう、ただ美しい技があるだけでも行かないだろう、もっこすの自分がここまで思いを募らせるのは、たぶん、このお寿司屋さんの「塩だけでやる!」という自我の強さに痺れているのだ。
 予約時間を少し回ったところで入店できた。平日のランチタイムの1時半過ぎというのに、カウンターも、いくつかのテーブル席も、2つある小部屋の一つも満席だ。まだ50数名の客がいるらしい。撮影もある我々のために左の小部屋が用意されていた。そこに進みつつカウンターの向こうで忙しそうに手を動かしているご主人・村上安一さんの姿を確認。女の子がタッキーの実物を見たときくらいに胸躍る。

 我々が食べ終わるまで作る村上さんの手が空くわけはないのだが、一応村上さんの手が空いてお話を伺えるときまでは撮影したり食べたりしていようという嬉しい状況に相成った。お品書きから編集長と編集女史は〝昼のおまかせ 6000円〟を選び、雲丹とトロに弱い私は光りもの中心に10品単品でお願いした。その内容を詳しく記すると〝昼のおまかせ〟は、赤雲丹・鮃(梅塩)・いか(雲丹塩)・小肌(この日は新子)・真名鰹(酢橘塩)・金目鯛(刻み山葵)・石鯛焼〆(葱ぽん酢)・縞鰺(柚子胡椒)・鮪漬け・かんぱち炙り(ガーリックチップ)・とろ・車海老の12品に赤だし・デザート。私の単品は、小肌(この日は新子だったので光りもの好きゆえ2つ頼む)・縞鰺(柚子胡椒)・いか(雲丹塩)・金目鯛(刻み山葵)・車海老・石鯛焼〆(葱ポン酢)・鯛・鮪漬け・ねぎとろの10品。

そしてとうとういただいたのだ!この日穴子が入っていないのは残念だったが、それぞれに、まあ、なんて美味しいことか…食べ物の専門家でもなく語彙も不足気味の私にはこの美味しさを的確に言い表す言葉が見つからない。拙い表現で恥ずかしいけれど「塩だけでなく山葵や酢や柚子胡椒などいろいろな脇役が魚の味をこれ以上なく引き立ていた」と言わせてもらおう。その組み合わせの絶妙さと意外性にわくわくしたし、何と言っても喜ぶべきは、魚に仕事がなされていたこと、つまりネタとして使われているのが熟成された魚であるということだ。刺身は別だが寿司ネタは私はじっくり寝かされて旨味が染み出しているのが好みで、新鮮すぎる魚の握りは生々しくてどうも苦手だ。この大食らいの人間が小食になってしまう。

  食べ終わり撮影も終わり、厨房も手が空いたのか村上さんが部屋に現れた。
 念願のお寿司をやっとやっと食べられましたっ、と告白すると「何をおっしゃいますのやら」と掌をひらひらさせて豪快な笑顔を返される。御年72歳とは思えぬ若々しさである。私がいちばん知りたい点はこの〝オリジナル〟は、いったいどこから、何から生まれたのか、ってことなので、雑誌やテレビの取材でもう幾度も何回も話しておいでと思うけれどももう一度お話しいただけないだろうか、とお願いすると、快く承諾してくれた。
 「私はね、天草市に男3人兄弟の末っ子として生まれましてね、高校生のときに2年間酒屋でアルバイトをしていたんです。そのときの配達先が『蛇の目寿し』でね、板前さんからよく「食うて良かっぞ」「食わんね」と巻き寿司を食べさせてもらい、寿司職人になったら毎日寿司を食べられるんじゃないかと『蛇の目寿し』で修業させてもらったんです。そして23歳で独立して今の場所で『奴寿し』を始めました。そんときは金などそんなにはないですからね、開店資金は2人の兄が援助してくれたとです。店を始めて今年で49年になりますけど、人に救われ続けて今に至ると思っとります。
 店を開いた当初は師匠である『蛇の目寿し』の味に倣っておりましたが、25年前店を改装するときの棟上げ式で転機が訪れました。天草では棟上げ式のとき、神様へのお供えやお出でいただいたお客さまへ酒や刺身を振る舞うんですが、そのときの刺身は塩で食べるという決まりがあるらしかった。で、食べてみると旨かとですよ。それで「ん?コレだ!」と閃きました。魚には醤油と決めつけていた頭がパアッと自由になったというか、塩で食べる刺身は美味しいと知ったのです。だったら塩で食べる寿司も旨いはずじゃないか、と、それからは塩で食べる寿司を求めて試行錯誤を繰り返し、数日間寝かせた熟成魚の寿司を思いついたとです。

塩で食べる寿司に変えた当初は地元のお客さんにはなかなか受け入れられなかったですね。だからどうしても醤油がいいとおっしゃるお客さんには、今もそうですが醤油を出すことにしております。また、何日も寝かせた魚というのもすんなりとはいかなかった。「歯のつんごてならんと刺身じゃなか(歯の折れるほどコリコリしていないと刺身じゃない)」とか「あん店は売れ残りの魚ば出しとらす(あの店は売れ残りの魚を出している)」とか叩かれました。でも徐々にこの新しい寿司の味が受け止められ評価され始め、県外からのお客さんが増え始めました。すると地元のお客さんも来てくれる。今では〝最初の一貫から最後の一貫まで醤油なしで食べられる店〟として認めて貰えるようになりました。
 魚と塩、薬味の組み合わせは、自分で食べてから決めよります。冬は鯔の卵を干した自家製カラスミで〝カラスミ塩〟、春は桜の花の〝さくら塩〟などもあるので、季節で異なるお寿司を愉しんでいただけたら嬉しいですね」
カラスミ塩にさくら塩…かあ。もう何があっても駆けつけたくなった。
 混み合うお昼は完全予約制で、うち9割が島外からのお客さんという。夜は島外からの予約を3~4割にとどめて、予約なしでふらっと来てくれる地元客のために席を空けておくという村上さん、優しいなあ。

積年の望みが叶い大大満足で「奴寿し」を後にした。今回は編集長運転の車というありがたい脚があったが、運転しない私が再びこの口福を得んとするなら列車に頼るほかにない。帰る道々、車の中で、先ほど村上さんが提案した2つの方法を再考した。
その① 土日祝日に昼前着の『A列車で行こう』で来て、ランチを食べて、慌ただしいけれど午後2時頃出る熊本駅行きの折り返し『A列車~』で戻る。
その② お薦めは一泊予定。平日の普通列車でゆっくり来て、夜お造りとお酒をじっくりと嗜み、腹八部のお腹にお寿司は1、2貫止まり。翌日ランチでお寿司をたっぷりと食し、やはりゆっくりと列車で帰る。


 う~ん、どちらもなかなか難しいけれど魅力的な過ごし方ではある。

天草創磁 久窯
熊本県天草市天草町高浜南2904
0969-42-0237
営.9:00~17:00
休.不定
※訪問の際は事前に電話で要連絡


奴寿司
熊本県天草市東町76-2
0969-23-4055
営.12:00~14:30、18:00~21:00
休.月曜(祝日の場合は営業、翌火曜休み)、木曜夜
※訪問の際は事前に電話で要予約